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砂と、影が二本。写っているのは、それだけ。
海に行った日の一枚なのに、海が写っていない。空も入っていない。淡い砂の色のなかに、ただ長い影が伸びている。なぜ足元にカメラを向けたのか、自分でも覚えていない。
何時だったかは、覚えていない
その日が何時だったのか、思い出せない。
けれど、影がこれだけ伸びているということは、日がずいぶん傾いていたということだ。真上から射していれば、影は足元で縮こまる。細く長くなるのは、光が横から来ているから。写真は時計を写さない。それなのに、影の長さだけで、だいたいの時間が分かってしまう。
覚えていないことのほうを、写真が覚えている。
海は、ちゃんと撮っていた

同じロールには、海の写真も残っている。波打ち際があって、その先に水平線がある。人に見せるならこっちだろう、という一枚。
それなのに、あとになって何度も見返したのは、砂と影のほうだった。
うまく撮れた写真と、あとまで残る写真は、どうも別のものらしい。前のほうは、その場で撮れたと分かる。あとのほうは、なぜ撮ったのかも思い出せないまま、ずっとあとになって効いてくる。
立っていたことだけが、写っている
影には顔がない。服も、持ち物も写らない。誰なのかは分からない。
それでも、そこに立っていたことだけは、はっきり残っている。何を着ていたかより、そこにいたという事実のほうが、時間が経つと大事になる。写真のなかでいちばん正直なものは、案外こういうものなのかもしれない。
二本の影のあいだには、少しだけ距離がある。近すぎず、離れすぎず。その間隔まで写っているのが、自分にはおかしかった。
気づかないうちに、もう一枚

あとから気づいたことが、もうひとつある。
同じ日に撮った堤防の写真の、いちばん手前。斜面に、細長い影が何本も落ちている。手すりの影だ。そして写真のいちばん下のふちに、丸い影がひとつ。自分の頭だった。
撮っているときには、見ていなかった。海のほうばかり見ていて、足元に何が落ちているかなんて、考えていなかったのだと思う。
フィルムは、その場では見えない。だから、見ていなかったものがそのまま写る。撮ったつもりのないものが残っているのは、たぶんそのせいだ。
影は、毎日伸びている
夕方になれば、影は伸びる。特別なことは、何も起きていない。
その、何も起きていない時間を写真にしておくと、どうなるか。何年か経って、自分がそこに立っていたことだけが残る。何時だったかは思い出せないまま、影の長さだけが、その日の時間を教えてくれる。
だから今日も、ときどき足元を見る。伸びていたら、一枚撮っておく。
── この日のフィルム ──
この日カメラに入っていたのは、コダックのウルトラマックス400。淡い砂の色は、たぶんこのフィルムのおかげだと思っている。

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